盧溝橋にて日中関係を考える 2008/6/8 その1 [旅行記(中国編)]
6月の北京旅行記の2日目です。
ここからの続きです。
今回は一人旅。
日本人向けツアーだと行かないようなところで、
ヨメと一緒だと行けないようなところに行ってみたいと
思いました。
その場所とは、盧溝橋。
誰もが歴史の授業でその名を学んだ盧溝橋。
1937年7月7日に起こった「盧溝橋事件」または
「七七事変」で日中戦争が勃発した。
中国に生きる日本人として、その地には一度は
行ってみたいと思っていたのでね。
北京駅前のホテルから、どう行こうか考えたのですが、
まずは公主墳駅まで地下鉄1号線で行って、
そこからタクシーに乗り換えるというルートにしてみました。
どうやら、バスで行こうと思ったら、五棵松で乗り換えれば、
直接、盧溝橋周辺まで行けるみたいです。
俺の乗ったタクシーは、西三環路から六里橋から京石高速へ
入り、どんどん南西の郊外へ。
運転手が、どこで停めればいいんだと聞いてくるのですが、
ひたすら盧溝橋(るーごうちゃお)といい続け、近くまで、
いよいよ信号で動かなくなったところで下りました。
でもね、タクシーで盧溝橋に来るような観光客は
あんまりいないんでしょうね。
実は俺が下ろされたのは、本物の盧溝橋の南側に
出来た、新しい橋のところ。ちょっと遠くで下ろされて
しまいました。
でもね、これも結果的にはよかったです。
盧溝橋を遠くから眺めることができて。
とりあえず、南側の橋を渡り、対岸から盧溝橋に近づきます。
対岸の集落を通り抜けていったんですが、
ふと気づくと、スズメだとかツバメだとか、
鳥がたくさん群れてます。
思わず、またカメラのレンズを望遠に換えて、
即席撮影会を始めちゃいました。
やっぱり、北京は燕京と呼ばれただけはあるな
なんていいながら。
集落を通り抜け、珍獣の屋根飾りのある建物が
見えたら、そこが盧溝橋の西の端でした。
20元の入場料を払って、いよいよ盧溝橋へ。
北京市内への入口だから華表だとか、
立派な飾りがされています。
この盧溝橋は長さ266.5メートル、幅7.5メートル。
橋桁は11個のアーチからなっています。
欄干にはこうやって、大小501体の獅子が並んでいます。
もちろん、一個一個形が違います。
盧溝橋の北側に見えるのが鉄道橋。
やっぱり、ここが交通の要所だったということをうかがわせます。
そうそう、下の永定河を見てください。
すっかり干上がっています。やっぱり北京は水不足なんですね。
※北京オリンピックを前に、永定河に水を流したみたいです。
その様子はこちら。
何度も何度も改修されていますが、橋の中央部には
往時の石橋がそのまま残されています。
マルコポーロもここを歩いたのでしょうか。
東岸の北京市側に渡ってきました。
ここには乾隆帝の字だという「盧溝暁月」の石碑が立っています。
かつて、永定河に浮かぶ月を眺めるのが、
燕京八景の一つだったそうです。
もちろん、市内側にも華表が立っています。
かつて、元代にマルコポーロがその美しさを賞賛し、
マルコポーロ橋と呼ばれた盧溝橋。
ここまでは、単純な観光で楽しめます。
盧溝橋の東側にあるのが宛平城。
南方から北京にいたる交通の要所である盧溝橋を護り、
外敵の進入を防いだところ。
つまり、軍事的にも要所となる場所。
それゆえに、この場所で「盧溝橋事件」が発生したんです。
実際、盧溝橋事件発生後、日本軍が最初に占拠したのが、
ここ宛平城でした。
城壁の南側には、日本軍の砲弾によって出来た
穴のあとがあります。
その一帯には、砲弾をモチーフにした、オブジェが置かれ、
事件に関する文章が書かれています。
気を取り直して、西側の威厳門から中に入ります。
威厳門から中に入ると、「登城口」という文字を発見。
どうやら、上に登れるみたいです。
チケット売り場のようなところがあったのですが、
誰もいないし、ゲートも開いているので、そのまま
登っちゃいました。
登ると、結婚写真を撮っているカップル発見。
まあ、風光明媚なところだと言えば、そうですからね。
城壁から眺めた盧溝橋。
こうやって、往時も橋の往来をずっと見張っていたんでしょうね。
いまでは、すっかり城壁だとか門も立派に修復されていますが、
ここまでしっかりと修復されたのは、ここ最近のことらしいです。
城壁の内側も綺麗に整備されていますが、
一歩胡同を中に入ると、一般庶民の生活が
そのまま営まれています。
観光地として整備しようとしているんですが、
そのアンマッチも面白いといえば、面白い感じです。
城内大街沿いには、屋根に珍獣の屋根飾りの載った、
小学校がありました。
きっと、これは昔からある建物なんでしょうね。
民家の間に点在する商店を通りぬけて、
次なる目的地に到着しました。
その場所とはここ。
中国人民抗日戦争紀念館です。
江沢民政権時代に、内なる批判を外に向けさせるために、
推し進められた反日教育。その一環として、
日中戦争勃発の地に、作られた紀念館です。
日本軍がいかに残虐で中国人民を苦しめてきたか、
共産党軍がいかに最後のところで、終戦に導いて今の中国を
作ってきたかを知らしめるための場所。
事実を伝えるというよりも、中国人民の愛国教育のための施設と
考えたほうがいいかもしれませんね。
ロビーからして、いかつい彫刻で始まります。
そうそう。ガイドブックには入場料15元と書かれていましたが、
実際は入場無料でした。
やっぱり、教育の場だから、広く多くの人に入ってもらわないと。
手荷物検査を受けて、中に入ります。
中に入ると中国語、英語、日本語の3種類のパンフレット。
さすがの俺でも、こんなところで、日本人ですって
言いながら歩く気にもなりませんでした。
3種類もらって、黄色い中国語版のパンフレットに
はさんで館内を回りました。
パンフレットの城内案内図。
詳しい記述は避けたいと思いますが、先に書いた趣旨の
展示が並びます。とても生々しいやつが。
休みの日ですから、俺のほかにはそれなりに家族連れの
見学客がいました。
そんな家族の会話から日本鬼子(りーべんぐいず)という
日本人(軍)の蔑称が普通に繰り返されているのを耳にして、
余計に無口になった俺でした。
そりゃ、こんな展示を見たら、そんな気分になるよ。
やっぱり、中国人はそういう愛国教育を受けているんですよね。
この展示を正として、なにくそ日本めって思う土壌が築かれるわけです。
一応、戦後のところだけ写真を撮りました。
(一般に、中国のこういったところは撮影可ですから)
日本の降伏宣言
靖国に祀られるA級戦犯
日中戦争での中国側の被害
「抗日戦争」での戦績
第8部が正常化のところ
日中共同宣言
日中和平友好条約
胡錦涛政権の日中関係。「5点主張」も
「歴史を直視し日中友好永久の平和を祈る」
この最後のコーナーで展示されていた、村山首相の直筆の
言葉。1995年5月3日にここを訪れた時に残したメッセージ
ということなんですが、これは深い言葉だと思います。
中国側は、戦時中の日本軍が中国人民に与えてきた苦しみの
過去のことを指していると理解しているのでしょうが、
やっぱり歴史を「直視」していないのは中国側ですよね。
歴史の都合のいいところだけをつなぎ合わせて解釈してきている。
この前読んだ本にも繋がることですが。
中国で生きる日本人の俺としては、こうやって、中国人が
どう考えているかを知った上で、感情的にならずに
対応していきたいと思います。
ちなみに、盧溝橋事件は本館の展示とは別に、
西側にある展示室で別コーナーになっていました。
思えば、ここで結構な時間を費やしてしまいました。
昼飯も食っていないし。
でも、あまり食欲もないんだよね。
やっぱりあんな展示を見た後だから。
とりあえず、くそ暑いし、コーラを1本買って飲み、
東側の順治門から宛平城を後にしました。
順治門には四川の地震への援助に感謝する横断幕が
あったのですが、気付いたら、門の前が四川料理屋でした。
きっと、四川出身の人なんでしょうね。
このあとは、四川地震で成都からパンダが北京動物園に
移されているっていうので、見に行きたかったのですが、
時間がなくなったので、止めました。
気分一新で、また「蒼穹の昴」の世界に浸りたく、
恭王府へタクシーで向かいました。(続きはここ)
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